"タカラヅカ"観に行った。2回目だ。
小学生の時はとても良い席で観た。
が爆睡した。
数万円の座席は子供にとってはただの椅子だ。
自動で動くピアノがおもしろかった記憶しかない。
幽霊が弾いているのだと思った。
それだけだった。
2回目は違う。
大人になると急に世界が美しくなるというのか。
大人って、悪いことばかりでもないようだ。
"タカラヅカ"はとにかく夢の世界だ。
帰りの阪急電車で私の目は誇張され光輝き、
すっかり少女漫画のそれになっていた。
言いすぎた。
とはいうものの、100年もの間少女の涙を集め続けた宝塚歌劇団は伊達では無い。
今回の演目は、
「fff(フォルテシッシッモ)-歓喜に歌え!-」
雪組の公演である。
ベートーベンの生涯に光を照らし、ゲーテ、ナポレオンとの関係の中で、失聴や失恋の中での彼の苦悩との闘いを浮き上がらせる作品だった。
中でも印象深いのは、やはり2人のスタァだ。
今演目で卒業のトップスタァ、男役の望海風斗とヒロインの真彩希帆がスローテンポでワルツを踊る。
その2人だけの舞台は、溶けるように優しかった。
私は一番後ろの席で、2人をもっと見ようとオペラグラスを取り出した。
2人の顔はとても綺麗だった。
しかしそのうち、オペラグラスで観るのに大変な違和感を感じるようになった。
オペラグラスに2人を収めると、とたんに何もみえなくなるのだ。
違和感で芝居に集中できなくなったので、後半はオペラグラス無しで観ることにした。
すると、とたんにタカラジェンヌはオペラグラスの外で大劇場の中を飛びわまった。蝶々のように。
えーっと、つまり、、、
やはり演劇なのだ。
2人が大切なのではなく、2人以外の空間全てが大切なのだ。
望海風斗と真彩希帆の間、その間にこそ、情報の全てがある。
オペラグラスを使ってしまっては、その空間の情報を読み取れない事になる。
そうは言うものの、ラインダンスの際には、オペラグラスを使う事を禁じ得なかったのである。
それは仕方がない。
トップスターをいかに大きく見せるかに、宝塚の100年の努力があった。
目まぐるしく変わる舞台や、客席を取り囲むM字の花道、人の配置の仕方、レビューでの大階段、背負い羽根等々、、、
スターシステムは宝塚にとってどれ程大切か。
宝塚歌劇団を創設した小林一三は、民衆の均質化を目論んでいたに違いない。
"市民生活が平等に豊か"である事が経済の近代化、強国化に繋がる事を小林は知っていたのではないのだろうか。
私は2階席の後ろにいながらも、芝居を充分楽しめる事が出来た。スタアが巨大だったからである。
座席の金額の違いで質の低下を防ぎ、なるべく多くの客が楽しめる構造になっていた。
まさに均質化である。
宝塚歌劇団はその歴史において、エンターテイメントの発展に大きく寄与し、更に、今現在も先頭を走り続けている事を認めないものはいない。
最後に一言。
真彩希帆きゃわ。
武士岡大吉
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