紫色が高貴な色として扱われるのは、昔、紫色の染料がとても貴重なものだったからなんですって。
常々わたしには、人に何かものを言う時、頭の中で‘仮想’の会話をしてしまう癖があります。
「自分にとって」、何でもないことを言うときは全くそんなことはないんですけど、
そうではないこと、
例えば、よく行くコンビニの店員さんを見かけなくなって、しばらく新しい人をよく見るようになったとき、前の人はどうしたのか尋ねようかどうか、とか
毎日同じ電車で見かける人に物を拾ってもらったとき、お礼以外に余計に何か話すかどうか、とか
それ以外でも、
もしこの人にこんなことを言ったら?みたいな、それこそ想像の発言を思いついたり、人にむちゃくちゃ文句があるときとか。
そんな時、頭の中にその人(たち)を呼び出して(全く知らなくても)、自分でその人に話しかけるんです。
その時の自分はとても口が達者で、とても余計なことを喋ってるような気がします。
それでその会話をしてどうなるかっていうと、
大抵、
現実では話しません。
もし、とっても勇気を振り絞って話しかけたとして、その仮の会話が役に立ったことなぞ、一度もありませんでした。
大抵、
頭の中の会話の1/10も話せていないです。しかも話し始めると目の前のことにいっぱいいっぱいで、
頭はほとんど機能していないような気がします。
きっと脊髄とかでわたしは会話しています。
何となくですが歳をとるごとに、わたしの口の足取りは重くなっていっているような気がします。
わたしのことをちょっと知っている人がこの話を読めば、お前の口はエンジンが積んであるように見えるぞ嘘つきとか、そんな感じなんでしょうが、
そういうときは大抵、
こっちが話しかける大義名分があるというか、流れがあるというか。お店の人と私はお客のような感じです。
(上の例えのコンビニ店員に関しては、お店の業務以外のことなので私は躊躇してるのでしょうたぶん。)
何もないように思えるのに話しかけることと、自分の怒りの感情を言葉で伝えるのには、ものすっごく二の足を踏み抜いています。
「絶対に言うということが決まっていること」は大丈夫なんです。
頭の中では、
どんな言い方にしようかとかそんなこと考えたり、
仮に仮想の会話をしたとて、ばばあっと適当に口の温度を上げて話してしまいます。
ほんとに何でもないようなことを、ちょっと顔見知りのような人に言うっていうのが難しい。
それから自分の不満や怒りを人に伝えるのも難しい。
でもきっと人生豊かな人って、
こんな仮想なんか一っ飛びで話しかけて、
自分の感情も伝えて、
人の輪を広げていくんだろうなって思うんです。
仮想なんかしなくても人にささっとものを言えるんでしょう。
まあ他人の頭の中なんて覗けないので、実際のところなんてわからないですけど。
こんなうるさい頭は着脱式にできたらいいのになって最近思うかわさきでした。
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