結構早く自分の番が回ってきてしまいました。おひさしぶりでもない高塚です。
実は自分、つちの娘の他に大学の演劇サークルにも所属しています。二足の草鞋というやつでこの前そちらは引退したので片方脱げました。で、その学生劇団では(もちろんつちの娘もそうですが)企画会議というものが存在しました。企画会議というのは簡単に言うと「次の公演何やるよ?」を決める話し合いのことです。各々やりたい戯曲とか書いた脚本とかを持ち寄って毎度毎度に喧喧囂囂というわけ。その、いろんな意見が飛び交う会議の最中、時々こんな発言を耳にします。
「ねぇ、それを今やる意味って何?」
あるいは
「じゃあそれを私たちがやる意味って何?」
だいたいの企画者はその指摘に言葉を窮します。わたしも企画を出す人なので何度か聞かれたことはあって、その時はテキトーな理屈で丸めこめたと思います。
「今やる意味」「私たちがやる意味」
意味って大事です。何か物事を為す上で意味とか意義とかとにかく何かないとダメです。それがないと価値がないです。やる意味も意義もないからそれは価値がないです。どうやらそういうことらしいんです。わたしには理解できません。
感謝の手紙コンクールって知ってますか?多分コンビニかなんかでやってるやつで、中学生の頃はたむろしてたので店内放送でよく聞いてました。何を聞いてたかっていうとその大賞作品が店内放送で読み上げられるわけです。どうやら大賞に選ばれるとQUOカードだか図書カードだかが結構な額貰えるっぽくて、当時自分も応募してみようかなとか思ってました。あ、でも、別にカード目当てじゃないです。ほんとです、ほんと。でも、その手紙を聞いているとだんだん大賞作品に法則性があることに気がつきました。死別した両親への手紙、片親の児童の手紙、特殊な家庭環境の子供の手紙。ほとんどがこんな内容だったのです。泣ける話でした。ジャンプ立ち読みしながらでも泣けるくらい、ほんとにいい手紙でした。つまり、手紙を書いてた子供たちにはたしかに意味も意義もあったんです。それだけの境遇があり苦しい思いをして、書いたんです。だから、わたしは応募をあきらめることにしました。手紙を書く意味も意義も、わたしにはなかった。幸せな家庭に生まれたわたしの抱いた両親への日頃の感謝なんていうのはゴロゴロ転がっている路傍の石ころに過ぎなくて、雀の涙も誘えない。でもいま思えば、それはコンクールなわけだから他と比べて見栄えする内容が選ばれるのは当たり前で、不幸な子供を僻んでまであーだこーだ思ったわたしは世界で一番嫌なやつでした。
ただ、わたしはその時から創作に対して、その人や団体や時期や社会情勢や民族や境遇に寄りかかりすぎるのはやめようと決めました。もちろん、その人性とか社会性を否定する訳ではありません。むしろそれは創作においてあって然るべきものだと思います。ただ、「あなたしかできないこと」「今しかできないこと」しかできない、やらせない、受け入れない、は違うと思うんです。それをずるいと思ってしまうのはあの時の図書カードかQUOカードのせいかもしれません。が、だとしてもわたしは「あなたしかできないこと」より「お前以外でも出来ること」をやりたい。意味も意義もないかもしれなくて、価値がなんか微塵もないかもしれないことをやりたい。そしてそれを「お前以外でも出来たけどお前にしかできなくなったもの」にしたいのです。意味も意義も価値も先にあることばかりじゃない。道すがらどんくさいそいつらを拾ってやればいいだけなんだから。
高塚
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