夏の暑さが、互いを鼓舞する言葉すら溶かしていってしまいそうだ。
野球少年等が、自分の背中の何倍の大きさもあるカバンを背負って歩いている。彼らは何も溶けていないみたいだ。滴る汗が、何かの代わりに流れ出てくれている。
反対に、涼しい顔してエアコンの効いた店でアイスティーかなんかを飲んでいる大人は、何かが溶けてしまっている。店内の涼しさから、グラスの氷は溶けることを知らない。大人は汗ではないモノを流して生きている。
不平だろうか、不満だろうか。思えば悪いものを流すのはいつだって大人だった。あの時の水銀も賄賂も水のように、汗のように、当然のように、流れていった。
鴨川の流れを見つめながら、そんなことを考えていた。夕方になり、多少暑さが和らいだ鴨川は、鴨と同じくらいの多くの人で賑わっていた。鴨も人も、鴨川が好きだなぁ。
私は鴨川は大して好きではない。ただ、水は好きだ。京都は色んなところに水が流れていて素敵だ。ところで水は溶けないが流れてしまうものだ。溶けた氷は水になるが、その氷が溶けてできた水は溶ける感覚を知らない。代わりに水は、流れる感覚を知っている。それはさぞかし爽快なのだろう。これほど見る者を、爽快な気持ちにさせるのだから。
その爽快さを流れるプールで擬似体験。流れているのは水であって人間ではない。とすると、流れるプールは「(擬似的に)流れる(感覚が味わえる)プール」なわけだ。面白い。
ちなみに水同様"流れるもの"と言えば、時が挙げられるだろう。時の流れは時として、水をも超える。この半年は、世の中の時の流れを大きく変えただろう。もう二度と、戻らないかもしれない。でも私達人間は、すでに時という流れるプールにどっぷり入ってしまっている。抜け出せないプールに。だから身を任せて流れ続けるしかない。たまに流れるプールを逆走している人を見かけるが、時の流れるプールではただの懐古趣味。あの頃は良かった、と言っている。しかし世の中には逆走する人が案外多いようだ。
演劇かなんかをやっている人は、プールサイドで焼きそばとかかき氷とか食べている人だ。時の流れるプールの傍観者。時が止まっている。世界とか世間とかいう波に酔ってしまったんだろう。演劇かなんかは、水みたいには、時みたいには流れないものなんだ。
鴨川の鴨が、私にそう言ってくれた。ちなみに稽古の帰り道だ。
長くなってしまいました。失礼します。
豊田莉子
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