22歳の遊び方

日差しが季節を主張してくる時期になりましたね、久しぶりにブログを更新します。豊田と申します。

この頃続いた倦怠感を跳ね除ける為にも、ここらで一つ童心に返ろうという思いが働き、先日、しゃぼん玉遊びに興じておりました。22歳が。鴨川で。

顔を真っ赤にしながら必死でプープー息を吹き込み、しゃぼん玉を生成し続けること、およそ1時間。何百ものしゃぼんが生まれては消え、生まれては消え、を繰り返しておりました。

ふわりと宙を漂うその球体は、まるで宇宙を揺蕩う惑星のように、列を成し、私から離れていくのです。そして、一定の時間が経つと音もなく姿を消し、まるで初めから何も無かったかのように空間が顔を覗かせます。

なんて無益な遊びなんだ!!

22歳の私は憤慨します。無益なことはしたくないのです、22歳なので。同じ遊びでも、泥団子さんは物体が残るぞ!絵本さんは知識が残るぞ!鬼ごっこさんは汗と友との絆とお母さんの「よく遊んできたね〜(「うちの子が元気に遊んでて嬉しい」の笑顔)」が残るぞ!それに引き換え、しゃぼん玉遊びときたら…!

何も残らない空虚な遊びだということに改めて気づかされました。

しかし、同時に声が聞こえてきます。遊びに利益を求めるのもいかがなものだろう?そんな効率厨みたいな発想ではつまらない大人になっちゃうよ?と。口を持たぬ筈のしゃぼん玉が、そんな風に語りかけてくるのです。

あー、辛。何もそんな嫌な言い方しなくたっていいじゃん。

こちとら、ただ何となく鴨川としゃぼん玉の組み合わせ、綺麗そうだなぁ。夏っぽさ感じられそうだなぁ。エモい感じになれっかなぁ。て軽い気持ちで始めた遊びだったのに、こんなに辛い思いしなきゃいけないだなんて!なんてこった!

とはいえ、確かに最近、なんにでも価値や意味や正当性を求め過ぎていたのかもしれません。
そんなに真剣に考え過ぎないようにしようと思います。

演劇だって、価値があるからやってるんじゃなくて楽しいからやってるんだもんな、とか言っちゃったり。

そんなぐちゃぐちゃした思考をリセットしようと、ふーっと勢い良くしゃぼん玉を飛ばしました。もともと無かったしゃぼんの膜が空間を、世界を区切って、閉じ込めます。でもその膜は病床の少女よりも脆く、すぐに壊れてしまうのです。

人ひとりの存在も、皮膚という膜で包まれたしゃぼん玉。脆くて、弱くて、すぐ消えちゃう。でも、だからこそ、しゃぼん玉みたいに綺麗なんだと思うのです。日の光を反射して、キラキラ光って。

鴨川でのおよそ1時間。無益な遊びは有意義な時間を私にくれました。さらさら流れる水の方に目をやると、鴨がこちらを見ている気がしました。

その鴨は、しゃぼんの膜で閉じ込めてやりたいくらい、美しい瞳をしていました。

暑い日つづきですが、体調を崩されませんようご自愛ください。


豊田莉子

劇団つちの娘

We are the theatle Company inKyoto

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